おババと三十八人の孫 平山 謙
2009年1月掲載
私の手許に一枚の写真がある。おババを囲んで、成人となった人から乳児まで三十七人の孫が写る。写真には「平山家孫大会記念」昭和二十六年八月二十日と白字で書かれている。どの孫も整然と正面を見て実に素直な顔で写っている。その後、おババの三十八人目の孫が一人誕生した。
写真の最前列に正座した丸い顔は四歳の私。私は平和憲法(昭和二十二年)の発布した年の生れ。孫のほとんどは戦前、戦中の生まれである。でも、戦争でおババの子供や孫で亡くなった者はいない。
写真の前列で手をしゃぶっている一歳位の男の乳児と、写真の時にはまだ居ない、三十八番目の孫の母親はおババの末娘だが、夫が出征する三日前に結婚式を挙げた。夫は終戦後、ロシアで四年間の抑留。夫の居ない嫁は嫁ぎ先で帰還する日を待った。夫が帰還して二年後の写真である。「孫大会」とあるから、親たちは写真に写っていないが、おババには八人の子供がいた。
その後、私は郷里の新潟村上を離れ、東京に来て、写真を見ることはなかった。今から二年前、東京立川に住む私の二番目の兄、忠の葬儀が終わったその夜、偶然、孫の一人の日吉真澄さんが「孫大会」の写真を送ってきた。古い写真をリニューアルしたと云う。写真の忠は若く、好青年に写っている。苦痛にゆがんだ、そして死化粧した忠の顔が、若く凛々しい光り輝いた青年の顔に変わっていた。
忠は「孫大会」の写真の頃の自分が一番、好きだったようだ。養子に行く直前である。六十八歳と若くして逝った忠は、地元の中学校の卒業を待つことなく、千葉県佐倉にある伯父の農家にもらわれて行った。山地の開墾や酪農で汗を流して十数年後、伯父夫婦に男子が誕生した。当時、結婚したばかりの忠は養子縁組を解消した。
会社定年を前に、妻に先立たれた忠は一人、亡くなるまで母の居ない実家に毎年、里帰りしていた。
実家の隣が母の実家、つまり写真のおババの家であった。私が子供の頃は、毎日、行き来していた。囲炉裏端に座ったおババは優しかった。三つ並んだ大きな土蔵の壁は朽ちて、蔵のコウモリが子供の遊び相手となった。農村社会の構造が音をたてて、変わる頃である。
「孫大会」から五十七年の歳月が流れている。写真のおババを囲む孫たちの顔のなんと心静かなことか。孫の一人ひとりに「大丈夫だよ、大きく羽ばたいてごらん」と、慈愛に満ちたおババがつぶやいているようだ。
●平山 謙(ひらやま けん)
萩中在住