東海道五十三次を歩く 吉田宿から岡崎へ その二 藤田 静枝
2009年3月掲載
国府の宿を翌朝七時に発ち、また西へ。早朝音羽川沿いの桜の木の下を歩き御油の松並木に入りました。およそ六百メートルにわたって樹齢三百年以上の松が三百五十本ほども続き、往時の面影をとどめています。
やがて赤坂、左手の関川神社には樹齢八百年の大楠木がどっしりと構えていました。そのそばには、「夏の月御油よりいでて赤坂や」の芭蕉の句碑があり、今度は夏の月を見に来たいと思いながら歩を進めました。
昼前に次の宿場藤川宿の資料館に到着し、からむし、むらさき麦などを学び庭先で昼食。昼過ぎ、松並木から大型車の行列する国道一号線に合流、マスクスタイルで二キロを耐えました。
乙川を渡りいよいよ岡崎城下。宿場内の道は二十七曲りと呼ばれ、たやすく敵が城にはいれないとのことですが、今の我々にはどこがどのようになっているのか実感することはできませんでした。矢作川の土手に辿りついたのは午後四時。二十五キロの行程に少し重い足で土手に登ると、そこはちょうど昔の矢作橋のあった所という説明に日吉 丸の姿が彷彿としてきました。そして岡崎から豊橋へ出て新幹線で帰宅、今回の街道歩きを終えました。
最後に、岡崎から東海道をちょっと戻って舞阪での経験をお話したいと思います。舞阪は江戸から三十番目の宿場ですが浜名湖近くの宝珠院というお寺で大森三次郎と森田屋彦之丞と彫られた碑をみつけました。
碑文によれば、文政年間、信州の住人森田屋彦之丞が商用の途中、舞阪の宿で出された岩海苔から舞阪での海苔養殖を思い立ち大森から三次郎という海苔職人を連れてきたということです。その事業は成功し、それまでこれといった産業もなく疲弊していた村は栄えました。
ところが、三次郎が大森に帰ろうとしたところ大森村は企業秘密をもらしたと帰郷を許さず、思い余って天龍川に身を投じたというのです。村人は三次郎を憐れみ、また森田屋の功績を讃えて、碑を建て、今も海苔養殖の始まる前には供養を欠かさないとの事です。
毎日のように食べている大森の海苔ですが、これ程離れた所にこんな話があったのかと興奮してしまいました。こうしたことも街道歩きの楽しみのひとつではないでしょうか。皆様もこの春からいかがですか。 おわり
●藤田 静枝(ふじた しずえ)
下丸子在住