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鵜の木の山小屋での思いで 1― 父 西堀榮三郎のことなど ― 西堀 峯夫   

2009年4月掲載

 昔の面影を残す多摩川上水路の近くの大田区鵜の木一丁目に、こんもりと繁ったヒマヤラ杉と雄雌の高く伸びた銀杏の木々に囲まれ小高い丘の上の山小屋風の家があります。春には綺麗な桜の花が鑑賞でき、暑い夏はひんやりとした心地よい風の通る小高い丘の木陰で涼める都会のオアシスのような家です。私の幼少の頃など近所の子供たちが蝉取りに庭を駆け回っていたし、最近は銀杏を拾いに来られる方もいらっしゃいます。父はこの様な方々を温かく迎え入れ、自然に親しんで貰っていました。

 この家を建て自然を愛した人は第一次南極越冬隊隊長を務めた父・西堀榮三郎です。父は、七十一年前に京都から上京し、この地に自分で設計した山小屋風の家を建てました。私も生まれてからずっとこの家で育ちました。今は長くドイツに居住していますが、最近家の整理のために長期間出張しており、何処を見ても懐かしさが一杯でこの家に注いだ父の思いを感じつつ過ごしています。お近くにいらした時は、どうぞ気楽にお立ち寄りください。

 六歳の時に、初めて京都の愛宕山に登ってから登山に目覚めた父は、中・高校生の頃には南・北アルプスの山々を初登頂しており、ヒマラヤ山塊に登りたいと国交のないネパールに戦後初ての日本人として潜入し、マナスル峰の登山許可を取り付けたりしました。そして、七十歳の時、め ネパール・ヒマラヤの五番目に高い未踏峰ヤルン・カンに遠征隊長として五千三百メートルのベースキャンプまで登っています。また、十一歳の時に日本人として初めて南極探検をした白瀬矗中尉の帰国報告を聞いてから「いつか南極に行く」 と夢を持ち続け五十四歳の時に実現しました。

 父は山や南極ばかりでなく、戦時中は空軍が使用する真空管を開発し大量生産する技術を確立する等科学・技術にも多大な貢献をしています。自然に親しみ、科学・技術に身を置く事で、戦後の荒廃した日本の産業を世界一に導く為に、日本流品質管理をも確立し日本全国の会社を指導していました。父の信条は、何事も人のやらない事、出来ない事など初めての事に果敢に挑戦する勇気を持つ事でした。

 誰でもいつかは問題に直面したり、迷ったりする時などがあるけれど、そんな時若い頃から夢を持ち続けていると、自然とそちらに向かう方向や方法が見つかるものです。私も大学院を修了し博士号を取得した後、会社設立の夢を持ち一旦は日本の会社に就職しましたが、十年後に欧州に赴任し、その後ドイツで会社を設立しました。

 自然に親しみ、甘受し身を委ね、学校などで吸収した知識を、人の本来持っている五感と手・足を使って体験・経験する事で、生きた知識となり知恵が湧いてきます。創意工夫で臨機応変に行動し、最後まで諦めずに行動すれば、どんな困難な事でも乗り越える事が出来ると、父が私たち子供に伝えてくれました。読者の皆様も試してみては如何ですか? つづく  

 

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