鵜の木の山小屋での思いで 2 ― 父 西堀榮三郎のことなど ― 西堀 峯夫
2009年5月掲載
私は第二次大戦中の昭和十八年に生まれ、直ぐ御殿場に疎開しました。戦後、鵜の木に戻ってきた時は、家から多摩川まで焼け野原でした。
特に三菱重工業、キャノン、北辰電機は完全に焼け落ちており、両親から「危ないから行ってはいけません」と言われていましたが、この焼け跡には、色々な物や材料が転がっており、私は行きたい気持ちを抑える事がどうしても出来ませんでした。色々な材料を拾って、おもちゃを作ろうと、安全に行ける方法を考え実行しました。いくら内緒にしていても拾ってきた物で何か作っていると直ぐ分ってしまいましたが、父は怒らずニコニコしていました。この経験から私は創意工夫を学び、何もなければ自分で作り、この機械はどうなっているのだろうと探究心旺盛に分解したり組み立てたりして、父の言う五感と手・足を使って色々な事を学びました。
鵜の木の家の庭には、八帖ほどの防空壕が掘られていました。父は戦前から、いつか戦争が始まる事を予感して自分で作ったと言っており、今も庭の下に残っています。よく、この防空壕に入って怒られましたが、今は懐かしい思い出です。空襲警報が鳴ると、当時の目蒲線が家の前で止まり、多くの避難者が家の防空壕に集まり、私の家族が入れなかったそうですが、人の役に立てて、父は大変嬉しそうだったと母に聞いたことがあります。
戦後、物資がなかった時、父は米やイモなど食料を買わず、番 いの山羊と数羽の鶏、果物の苗を買い込んできたそうです。山羊に子供を作らせてその乳を飲ませてくれ、ニワトリの卵は我々子供たちの栄養源と成りました。これらの生き物の世話は、子供たちの日課でしたので、今でも動物が大好きです。この様に、父は合理的に物事を考えて行動していました。 父・榮三郎は我々子供たちに「勉強しろ」とか「将来こうしろ、あぁしろ」などとは一切言いませんでした。書斎を持っていなかった父は皆の集まる居間で勉強していたのでその姿を見て子供たちが一緒に勉強したのです。
私は、大学に入ってからは乗馬部に所属し、一年でやめましたが、徹底的に馬を研究し扱える様になり、お陰で今も何処ででも馬に乗れます。又サーフィンやヨットや潜水に明け暮れし、夜はダンスパーティに入り浸る遊び人でしたが、ここで得た物はとても有意義で、私の人生に大変影響しています。
父の「何事にも経験を積め」という言葉どおりに実践し、遊びにも勉学にも私なりに満足しています。大学院終了の後、私は会社設立を夢見ていました。しかし父に「社会の仕組みを知るため一度会社勤めをしてはどうか」と言われ、日本の真空機器メーカーに就職しました。そして先号でも触れましたが、ドイツ勤務の後、ドイツで会社を個人で設立し現在に至っています。
父を尊敬する師匠として少しでも近づける様に父の残した膨大な資料を整理しつつ、日々学んでいます。父からはここに記した事以外に多くの事を学びました。そして、それらの有意義な教えを、若い人々に継承出来る機会があれば幸せだと思っています。(おわり)
●西堀 峯夫(にしぼり みねお)
鵜の木在住