大連の思い出 肥後 信治
2009年8月掲載
2009年8月掲載 私は1933年、中国の大連で生まれ少年時代を過ごし、戦後長崎県佐世保埠頭に弥彦丸で引き揚げてきました。その頃の大連は1904年の日露戦争に日本が勝利し、翌〇五年ポ−ツマス条約により露西亜から租借権を譲渡されていました。露西亜統治時代のパリをモデルとした都市づくりで、大広場には大和ホテル(現在も大連賓館として営業)の美しい建物がありました。
何と言っても有名なのは南満州鉄道(株)(通称満鉄)の本社があったことで、同社は1906年(明治39年)創業の国策会社で初代総裁は後藤新平氏でした。前述の大和ホテルも満鉄の経営です。
私の少年時代の人口は約80万で、内日本人は20万位でした。現在は旅順市を含めて600万の大都市になっています。
旧制中学及び女学校が約10校、小学校が20〜22校位あり、現在でも同窓会活動が活発に行われております。私の小学校同窓会は40年以上継続し、各学年の会は今でも年に1、2回、会食と旅行を楽しんでおります。亡き遠藤周作氏やジョージ川口氏は先輩です。
父は普通のサラリーマンでしたが、中国人の部下も多く中国語は不自由なく彼らと話していたのを覚えております。家は社宅でしたが結構広々としたペチカのある部屋で、15歳位の可愛いクーニャン(女中さん)がいて家事の手伝いをしていました。その時代の中国では女児が4、5歳になると、足指に長い布帛を巻き親指以外を足裏に織り込む様に固く縛って足を大きくしないようにする、纏足という風習がありました。クーニャンの足を見る度に不思議に思った記憶が残っています。
大連と言えばアカシアが一番懐かしい花です。六月のアカシア並木を家族と共にマーチョ(馬車)に揺られて走った事を鮮明に覚えています。そして白いアカシアの花を天ぷらにすると、とても美味しいのです。大連のアカシアは清岡卓行さんの「アカシアの大連」が芥川賞を受賞したことで一層有名になりました。
大連の緯度は仙台とほぼ同じで、冬季の寒さが厳しくマイナス10度以下の日もありました。冬には校庭がスケートリンクになり、自宅から学校までスケート(ロング)で通った覚えがあります。クラスには白系ロシア人や中国人・韓国人が少数いました。中国語は四年生頃から学校で少し習いましたが、全く身についておりません。戦後ロシア軍が駐留してかなり危険で怖い思いをしました。そして私は、無事帰国ができましたが、中国東北部では沢山の人が亡くなり、多くの残留孤児・婦人を生んだことを思えば、今の日本の平和は夢の様です。
大連には成田から毎日数便定期便(3時間)が出て、多くの日本人観光客が訪れています。
●肥後 信治(ひご しんじ)
鵜の木在住