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文文文(bunbunbun)

 

祖父の息吹   張 慧純(チャン・ヘスン)

2009年11月掲載

 

 11月でこの街に住んで3年になる。数年後、学校に上がる息子が千鳥町の民族学校に歩いて通えるようにと選んだ場所だった。物件回りをしていたある日の夕暮れどき。近くの大きな道路が不安材料ではあったけれど、すぐそばに公園と診療所が見え、また、どこか懐かしい空気に心の落ち着きを覚え、この場所で暮らしていくことを決めた。

 久が原にある「昭和のくらし博物館」を知ったのも最近のこと。博物館に祖父母の遺品が展示されることになったのだ。一人娘だった母は、祖父や祖母亡き後、祖母が余り布で作ったポジャギをはじめ、その遺品を大切に保管していた。その品々を目にした館長が、隣人の暮らしを紹介しようと声をかけてくれたことで、「ポッタリ(風呂敷)ひとつで海を越えて」と題する企画展(来年八月まで)に祖父母の品が置かれることになった。博物館の2階、四畳半の1室には祖父や祖母が生前に使っていたちゃぶ台ややかん、祖父手作りの鋳物や李家の族譜が展示されている。  その部屋には、私が初めて目にするものがあった。「1945年8月解放記念」と刻まれた銀製のスッカラッ(スプーン)…。

 1907年、慶尚北道大邱で生まれた祖父は、仕事を探すために玄界灘を渡ってきた。三重県で鋳物業を営み、解放後は同胞のための金融機関を仲間とともに立ち上げ、子どもたちに母語を教える学校作りにも懸命だったと聞く。その話の多くは母から伝え聞いたものだ。

 朝鮮が解放を迎えた1945年、当時38歳だった祖父は、4人の子を持つ父親になっていた。祖父は、生まれ故郷に帰る日をどれほど待ち望んでいただろうか。スプーンに刻まれた「解放」の文字からは、当時祖父の胸に駆け巡ったであろう喜びと明日への希望が伝わってくる。そして私は、祖父が解放を迎えた時が今の自分と同年だったことに初めて気付いた。

 歴史の荒波にのまれ、異郷暮らしを余儀なくされた祖父だったが、戦後の混乱と長引く朝鮮半島の分断により、解放後ついぞ故郷の地を踏むことはなかった。

 その悲しみは、祖父たちが築いた礎の上に暮らす私の想像を超えるものだ。けれど、遺された品々を見ながら私は、戦争によってきょうだいと生き別れとなった悲しみを乗り越え、この地でたくましく生きてきた生前の姿をしっかりと思いだすことができる。  祖父を亡くして今年で10年がたつ。これほど近くで2人の息吹を感じられるとは思いもよらなかった。そして、このことに、私はこの街との不思議な縁を感じている。   

 

●張 慧純(チャン・ヘスン)

 

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