「蒲田モダン」を築いた人々 その一 黒澤貞次郎と吾等が村 岡 茂光
2010年9月掲載
大正から昭和初期にかけての蒲田には、西洋の香りが漂い「流行は蒲田から」といわれました。この華やいだ雰囲気は、当時蒲田に進出した幾つかの会社を率いた人々により育まれた独特の文化によって創られたもので、後に人々はこの時代の蒲田の文化を、「蒲田モダン」と呼ぶようになりました。
「蒲田モダン」の担い手たちは、西洋の文明を積極的に吸収すると共に、日本独自のものを創り上げる事を目指しました。彼等は、日本人の誇りと進取の精神に満ち満ちていたのです。今回から二回にわたって「蒲田モダン」を築いた代表的な人物をご紹介しましょう。
日本のタイプライターの祖、黒澤貞次郎が、蒲田一丁目(現在跡地には富士通、大田区民センターが建っている)に三万坪に及ぶ広大な土地を取得したのは大正三(一九一四)年の事でした。青年時代、八年に亘るアメリカでの生活で、タイプライターの重要性、将来性に着目した貞次郎は、独力で和文タイプライターの開発に成功し帰国しました。その後、銀座で「黒澤商店」を立ち上げ、タイプライターの販売とサービスを手掛け、日本の電信業界の進歩と官庁、会社、学校等の事務効率化に多大な貢献をしました。
続いて「日本人のタイプライターは我々の手で作る」の信念のもと、貞次郎はその製造拠点を蒲田の地に定めました。工員の数は約百名、にもかかわらず貞次郎が三万坪にも及ぶ広大な土地を求めたのは、アメリカで見聞した西欧の「田園都市」を自分なりに咀嚼し具現化する為でした。「都市生活の幸せは自然と文明の調和によってもたらされるもの」と考え、彼は自分自身で工場と独特な集合体(村)のプランニングを行い、仲間の行員と共に工事にとりかかりました。こうして三万坪の広大な野原は十三年後に、工場をはじめ社宅、菜園、プール、テニスコート、幼稚園、小学校を完備した理想の村に生まれ変わったのでした。
貞次郎が名付けた「吾等が村」で工員、家族等約五百名人が充実した毎日を送りました。豊かな生活の一端をご紹介しましょう。社宅の数は約百三十戸、敷地は四十ー五十坪、建坪が十五ー三十坪とゆとりのあるものでした。家賃は四円から十五円で光熱費、水道代、入浴料は全て工場負担、一方、最低給料が四十五円!これはこの世の「ユートピア」で、多くの人々から「黒澤村」と呼ばれ羨望の的となりました。尚、「吾等が村」は大戦後も一時は黒澤商店本社としての機能を有していました。しかしながら昭和二十八(一九五三)年、貞次郎逝去後徐々に減少し昭和三十年代初頭にその幕を閉じました。
関東大震災、第二次大戦をはじめとする幾多の困難を乗り越えて事業を発展させた貞次郎、その心には常に「報国の志」が宿っていました。そして、彼はその志を納税という具体的な形で実行したのです。「納税は美徳なり」の哲学の下、貞次郎は生涯お店の法人化は許さなかったのでした。節税の為の法人化は貞次郎にとってお国に対する背信行為に思えたのではないでしょうか。
黒澤商店は、今も株式会社クロサワとして銀座六丁目(初代黒澤商店本社ビル所在地)に本社を構え携帯電話、パソコン、不動産関係の事業を営んでいます。
日本人としての誇り高い心を持ち、先進的文化を積極的に取り入れ、私欲を捨て働いた黒澤貞次郎。彼の生き様を、今こそ我々は学ぶべき時なのです。
つづく
● 岡茂光( おか しげみつ) 渋谷区在住