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「蒲田モダン」を築いた人々 その二 大倉孫兵衛の熱き想い
「良きがうえにも良きものを」  岡 茂光

2010年10月掲載  

 

 「この上なき美術品の誕生」を目指し、大倉孫兵衛が黒澤貞次郎の勧めで蒲田の地に(「吾等が村」の南隣)陶磁器工場を設立したのは大正八(1918)年のことでした。このとき孫兵衛は既に七十七歳の老境にありましたが彼の理想の陶磁器に賭ける想いは益々燃えさかっていたのです。
 孫兵衛は天保十四(1843)年江戸の絵草紙屋に生まれました。彼は若き頃、文明開化の色濃い横浜で外人相手に絵草紙を売っていましたが、このとき舶来品の仕入れ販売を行っていた森村市左衛門(森村財閥創始者)と知り合い義兄弟の縁を結びました。その後、孫兵衛は市左衛門の興した貿易商社、「森村組」にパートナーとして参画し、傘下に誕生した「日本陶器」(のちの「ノリタケ」)の実質的責任者として西洋陶磁器との関わり合いを深めていきました。このとき、孫兵衛の右腕となったのが、アメリカで経営を学んだ息子の和親。
 「日本陶器」の隆盛に尽力した孫兵衛でしたが、自分の思い描く理想の陶磁器実現の為に和親と共に大倉陶園を設立しました。実はその和親がニューヨーク滞在中黒澤貞次郎と知り合い親交を深めたことが、蒲田に工場を設立するきっかけでした。
 設立に当たり孫兵衛のしたためた〈遺訓〉には彼の存念が次のように述べられています。
 「自分は利益の為にこの仕事を始めるのではない。これは言わば真の〈道楽〉で始めるのであるから誰にも迷惑はかけぬ代わりに自分の好きなようにやらせて貰う。ここで西洋の一流陶磁器に優る、〈良きが上にも良きもの〉の誕生、即ちこの上なき美術品の誕生を目指すのだ。既に蒲田に一万三千坪の土地は買い入れた。この地に美術館を思わせる工場を建設しよう」
 当時、大倉陶園を訪れた見学者は、英国の田園を思わせる風景の中に別荘を思わせる素適な工場に目を見張りこう記しています。「閑静な工場、周囲にはバンガロー風社宅と合宿所が点在、庭には一面カンナの花が咲き乱れていた。一階の彫刻室、二階の絵付け場で働く若者は総てネクタイを締めこざっぱりとした身なりで仕事に打ち込んでいる。周囲の壁には古今東西の美術品が飾られ、さながらギャラリーに居るようだ。静かで真摯な情熱から美しい陶磁器が生まれてくる。営利や打算の匂いはどこにもない。西欧の高級陶磁器を凌ぐのも間近と思われる」
 大正十(1921)年、初窯に火が入った年の瀬、孫兵衛は他界し自分の思い描いていた作品を見ることは叶いませんでした。しかし、彼の強い遺志は和親に引き継がれ昭和十二(1937)年のパリ万博にて見事、名誉大賞を受賞したことで大倉陶園の名前は海外でも大きな注目を集めるようになりました。国内でも昭和初期より皇室御用を承る地位を確立し、昭和三十四(1959)年には、当時皇太子であった明仁親王と同妃美智子様の御成婚時の晩餐会用食器として宮中に納められたのでした。
 現在、大倉陶園は戸塚に所在地を移し、高級ブランドとしての地位を維持し孫兵衛のモットー「良きが上にも良きものを」を継承しているのです。   おわり

 

● 岡茂光( おか しげみつ)  渋谷区在住

 

 

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