四代目お茶屋のつぶやき (前編)新聞記者だった創業者 鈴木 和貴
2010年12月掲載
私が蒲南茶荘の四代目としてお茶屋になったのは、2007年のことです。その時、最初に感じた疑問は、全国各地のあらゆる美味しいものが、電話でもインターネットでもすぐに手に入れられるご時世、わざわざ蒲田の茶屋から茶葉を買い求める価値があるのだろうかということでした。
なぜなら、かくいう自分も自宅ではパソコンを前にして、多くの商品をこの手にしているのですから。その疑問を解決するために、我が「蒲南茶荘」の歴史をひもといてみることにしました。
初代となる倉橋義郎が、現在の店舗がある蒲田で蒲南茶荘を創業したのは、今をさかのぼること八十三年、昭和2年の話。ところが、倉橋義郎は、最初はお茶屋を始める気持ちはまったくなかったようです。
書生として勉学に励み法政大学を卒業後、朝日新聞社の記者として活躍しました。その後「斯論[しろん]」という雑誌を発刊し、法政大学学監代理を務め、やがて多くの政治家と交わるようになります。しかし政治の世界に入らなかったのは、養父の意思で「政治家にはならない」という誓いをたてさせられたからだそうです。その後、人との繋がりを求める中で、掛川(静岡)出身の利を生かして「茶業」を商うことを決意、これが蒲南茶荘の始まりです。ちなみに蒲田の呑川沿いという地を選んだのは、趣味である釣りができるという理由だったとか。
そしてこの業界における初代の地位を確かにしたのは、戦後の「食糧統制法」施行時のことです。米や味噌、醤油、塩、砂糖などはあまりにも有名ですが、実は当初はここに茶も含まれておりました。
しかし「日本古来の〈茶〉を統制することは、多様な茶葉の楽しみを阻むことはもちろん、その文化・日本人の心をも衰退させる」と反論、かつて築いた各界への繋がりを活用して、茶の統制を回避することに成功しました。後にこの功績が認められ、東京都茶問屋協同組合二代目理事長、東京都茶商工業組合理事長、全国茶業組合顧問などを歴任することとなります。
その後を継いだのが私の祖父、二代目の鈴木弘。いまでこそ、甘みが強く煎がきき渋味がきつくない「深蒸し茶」は関東を初め全国的にその知名度が高いですが、当時は「何煎も飲める茶葉は、業界の流通量に影響を与える。さらに粉っぽいから見ためが悪い」と懸念されていました。その時代にあって、二代目は「見ためがきれいな茶がよいという常識を破って、飲みもの本来の味の良さだけを追求して作られたのが〈深蒸し茶〉だ」と主張しました。 初代の築いた確かな地盤をもとに「茶問屋」として商いを拡大する中で、東京都茶問屋協同組合五代目理事長にも就任、「深蒸し茶」の普及・消費拡大に力を尽くしました。その思いが実り、後に「山本山」をはじめ東京都の茶小売店や主に関東南部を中心に茶の卸業を拡大しました。
●鈴木和貴(すずき かずたか 蒲田在住)