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文文文(bunbunbun)

 

六十四年振りの大連   肥後 信治  

2011年6月掲載  

 

 一昨年八月に本誌に大連の思い出を掲載して頂いたところ、思わぬ反響があり我ながらびっくりしております。中には小学校の先輩の方から、同窓会名簿を頼りにお電話を頂きました。

  小学校時代の友人の大半は、その後大連に行っており、数回訪問した人もおります。
  ところが私は、引き揚げ後初めて、昨年六月に長春(旧新京)〜ハルビン〜大連〜旅順〜瀋陽(旧奉天)〜丹東(旧安東)のJTB 七日間ツアーに参加して参りました。大連に限定して思い出すままに少し書いて見ます。
 参加者はたったの六名、成田から同行した添乗員と現地中国人ガイドを含めて八名で、個人旅行の延長の様な恵まれた旅でした。ハルビンから夜行列車で大連駅に到着したのが、九時間の長旅のあと、混雑した長い駅の通路を重たい荷物を持っての六十四年振りの再訪でした。
 人気のホテルニッコー大連(ここには二泊)で小休止して市内観光スタート。東京にはない円形の大広場(現在は中山広場)の周りの夢にまで見た大和ホテルや旧横浜正金銀行の建物を見た時は、懐かしさで感無量でした。大和ホテルは建物の中を見学しました。大広場はかなり大規模な地下鉄工事中でした。
 大連埠頭の前の高いビルの屋上から、二十万人の日本人が引き揚げた第ニ桟橋を見た時は、万感胸に迫る思いでした。私達一家は弥彦丸で佐世保港に上陸し、南風崎(ハエノサキ)駅から引揚列車で故郷へ帰りました。
  旧日本人街では、南山麓小学校界隈を散策しましたが、今でも静かな落ち着いた街でした。私は薩摩町に住んでいたので、満鉄本社の前の広場で遊んだ子供時代の記憶が戻ってきました。大連病院・鏡ガ池・旧市電の一部は昔のままでした。同行者が少なかったので、皆さんの了解を得て第一六中学校(旧大広場小学校)を訪問しました。放課後で校門は閉まっておりましたが、現地ガイドが交渉してくれ、中へ入れてもらいました。今は六年制の中高一貫校になっていました。建物は当然の事ながら新しくなっておりましたが、懐かしいポプラやアカシアは昔のまま残っておりました。校庭で高校生らしい感じの良い少年にいきなり英語で話しかけられました。この学校を卒業したのだと言うと、彼等は心から歓迎してくれました。とても気持の良い爽やかな旅の思い出になりました。
 今回訪問した都市の中でマンション価格が一番高いのは大連ですが、それでも現地ガイドの年収は約三万元(一元一五円)で昨年のビザ緩和の収入制限には達しておりません。ただ、車の多さと高層ビルの建築ラッシュに見られる経済大国のパワーには、圧倒されました。中国の百万都市は百六十あると聞きびっくりしました。大連の現在の日本人の人口は約三万人だそうですが、戦前の二〇万が如何に多かったか想像を絶する数だと思います。
 海鮮料理と水餃子は満喫してきました。そして七日間、一度も雨に降られず思い出深い中国旅行になりました。

 

●肥後信治(ひご しんじ) 鵜の木在住

 

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