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文文文(bunbunbun)

 

町工場社長55歳 博士への道 その1 オヤジの罠にはまった? 田中隆    

2011年11月掲載  

 

  1969年8月、父がこの大田区下丸子で町工場をスタートさせた。会社名は出身地宮崎県都城市安久(ヤスヒサ)からとって「安久工機」だ。当時、早稲田大学理工学部土屋研究室と東京女子医科大学とで人工心臓開発プロジェクトが進められていた。そして安久工機はものづくりの面で、それをサポートしていた。私は中学二年の頃で、父は人の役に立つ仕事に関わっているんだなと感じていた。
 私が東京農工大学機械科大学院生一年だった1981年3月、ある日の夕食時、オヤジは酒を呑みながら当然だと言わんばかりに私に向かって言った。「隆、お前は安久工機に来るんだろ?」。その頃、就活はまさに売り手市場の時代。オヤジの後を継ぐか企業に就職するか迷っていたが、断定的なオヤジの発言に“カチン! ”と来た。「いや、安久工機に行くつもりは無いから」と思わず口を滑らせてしまった。この一言で口論となり、最後にオヤジは「もういいからお前の勝手にしろ!」と、匙を投げた。しかし暫く冷静になって考えた結果、自分はやはり、物に最初から最後まで関わってまとめる仕事をしたい。それには安久工機に入ることだと思った。今考えると、オヤジの罠にまんまとはまっていたのかもしれない。
 その後オヤジから「安久工機に入るにしても4〜5年は他人の釜の飯を食って(勉強して)来い。」といわれ、土屋研出身で当時大阪の国立循環器病センター(略して国循)研究所人工臓器部で研究員をされていた梅津光生氏(現早稲田大学教授)に事情を説明して、大学院修了後、その研究所の研修生となった。1982年から丸4年間人工臓器部にお世話になり、人工心臓・血液循環回路の設計・製作・試験等について学んだ。国循初の人工心臓臨床応用の際も人工心臓メンテナンススタッフとしてICUにも当直し、とても緊張したことを覚えている。
 その後、1986年に安久工機に入り、医療機器も含め様々な試作品の設計・製作に携わってきたが、国循時代に得ることができた知識・人脈は、今でも大変役に立っている。 梅津氏はオーストラリアで、研究員生活をしたのち、1991年に早稲田大学の教授に就かれた。そして、安久工機は梅津研の卒・修論用装置の設計アドバイス・製作に関わることになり、現在に至っている。 つづく 

 

●田中隆(たなか たかし)下丸子 安久工機

 

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