かわら版クラブ入室:会員番号  パスワード  会員番号とパスワードを入力して下さい

文文文(bunbunbun)

 

我が街を歩く 2  家の下に古道が?  宮川達雄    

2012年7月掲載  

 

 地形の話に続き、今回は古い地図の話だ。震災後古地図ブームになっているようだが「いったいこの道はいつからあるのだろう」と思ったり、「家の敷地にかつては道があった」事を知らない人には是非読んでほしい。 
 明治13年に陸地測量部(国土地理院の前身)が精密測量で初めて作った「東京近傍図」(東京南部)という地図がある。明治初頭の東京が詳細に記録され等高線や標高も記載されている。インターネットで閲覧できる。
 明治13年当時鉄道は東海道線だけ、多摩川は蛇行し土手の整備はまだ先の話。主要道路は東海道(第1京浜)、平間道(旧池上通り)、中原街道(桜坂経由)だ。多摩川は渡し船で渡っていた。これら街道を繋ぐ支道は多く現存する。例えば、荏原病院通り、大森十中裏の道、馬込から夫婦坂へ行く嶺道、道々橋から久が原台地を通り下丸子へ降りる道、御嶽神社から白山神社、鵜の木八幡を通る道は前者と「ぬめり坂」で合流する。そして六郷用水側道。概ね古い道は真直ぐなものは少ないので歩いていれば容易に気づく。そんな中、新しい幹線道路で分断されて今や「路地」になってしまった道もある。
 昔から不思議だったのは、環八沿いのユニクロの裏にJA(農協)
があること。何故こんな所に農協があるのかと思っていた所、この地図で解明できた。この農協の前の道は奥沢から御嶽神社へ通じる道路だった。「旧環八」とでも言おうか。田園調布警察の裏やイオンの自転車店横にも痕跡がある。この道は旧中原街道と交差しその角には役場(現嶺町出張所)が、その後警察署、青果市場ができ、いわば中心街だったのだ。そこには当然農協がなければならないわけだ。
 一方、宅地造成、鉄道敷設等で消えてしまった道もおもしろい。嘗ては現在の環八の鈴由GSの脇から久が原のみずほ五叉路へ直行する道があり、その先大里獣医院までは昔のまま現存しており、道々橋―下丸子道路と交差する。七中から南東に台地を横切り池上警察署辺りで平間街道に接続、池上本門寺前に達していた。鈴由から西側はほぼ現存の道で丸子の渡し(沼部)へ通じている。道が消滅した東嶺町と久が原6丁目は古道の上に家が建っていることになる。古道は大正昭和までは何百年もそこにあったに違いない。平間道は九世紀頃に既にあったそうだ。我が街の道には大昔から有名無名の大勢の人が往来をしていた訳だが、それに気づいている現代人は少ない。おわり

明治13年地図のアドレス … http://bit.ly/LeUAfw
グーグルマップ古道 … http://goo.gl/maps/6HPM

 

●宮川達雄(みやがわ たつお)鵜の木在住

 

<前のページに戻る

▲ページの上に戻る