オニタビ通りを行く(2) 廣瀬 達志
2012年11月掲載
蒲田駅東口から、京浜東北線に並行して大森東口に抜ける「東邦医大通り」は、戦前「オニタビ通り」と呼ばれていました。その呼び名の由来である「オニタビ工場」は、大正九年(一九二〇年)に耕地整理の終わった大森西の内川沿いに、設立されました。それ以来この工場前の道路は、「オニタビ通り」と呼ばれていました。戦後は鬼足袋工業株式会社の消滅とともに、その呼び名も徐々に「東邦医大通り」に変化して、今に至っています。
明治三〇年代半ばに、静岡でコールテン生地の国産化に成功した寺田淳平はコール天生地とコールテン足袋の販売を開始し、明治三八年(一九〇五年)からは「コールテンの鬼足袋」のブランドが、一世を風靡することになります。
破竹の勢いでコールテン足袋を普及させた寺田淳平は、明治四三年(一九一〇年)には東京大森に、ミシン六千台を擁するコールテン足袋の新工場建設の計画を発表します。しかしその後、第一次世界大戦が勃発し、また創業者の寺田淳平が逝去するなどの波乱があり、実際にオニタビ工場が大森に設立されたのは、一〇年後の大正九年のことでした。
この頃になると全国の足袋メーカーも成長し、国内の市場争奪戦が始まります。オニタビはコールテン製造と直結している強みや商品見本市で優良品との評価を受けている強みがありました。しかし、ダンピングで市場参入する粗悪品メーカーが後を絶たず、オニタビも全国に向けて積極的な販路拡大を進めていきます。コールテンという新素材の人気を高め、優良商標のオニタビを売り込むことには、相当の力が入っていたようです。
当時の販路拡大は実際に商品見本を持って営業マンが全国の小売店に行商のように売り歩くというものですが、広告宣伝もいろいろな工夫がなされています。テレビやインターネットのない時代の広告宣伝は、新聞への一般広告、懸賞広告掲載、ホーロー看板を小売店に配布し店先に掲示させる、小売店の販売に音楽隊やチンドン屋を派遣し鳴り物入りの宣伝をする、巨大な広告塔を建ててランドマークとして注目を集める、などがあったようです。
オニタビは全国で数百もある大小の足袋メーカーの中でも「西の福助、東のオニタビ」と称されるほどの一流ブランドでした。コール天生地を生産し、これを素材に独占的に足袋を製造するという一貫した生産で鬼足袋は国内トップメーカーとして明治期から昭和初期まで君臨しました。
ところが昭和初期からオニタビは戦争と国際経済の変化の中で、あっという間に凋落していってしまいました。戦争と国際経済がオニタビとどんな関係にあったのでしょう? つづく
●廣瀬達志(ひろせ たつし)蒲田開発事業(株)まちづくり部長・元区職員