オニタビ通りを行く(3) 廣瀬 達志
2012年12月掲載
オニタビ通り(現・東邦医大通り)の名前の由来である鬼足袋工業株式会社は昭和の厳しい時代を経て、昭和二十年の敗戦とともに消滅していきます。優秀な素材・技術と、多くの顧客に支持されたオニタビが凋落していったのはなぜでしょう?実はオニタビが戦前の日本の繊維産業の運命と同じ道を歩んでいたことが大きな要因でした。
戦前の日本の資本主義は重化学工業が未完成でした。また、その原材料の多くも輸入に頼って成り立っていたという弱みを持っていました。その中で繊維などの軽工業が日本経済の牽引車としてフル稼働し、背伸びしながら世界の強豪国に挑戦し肩を並べようとしている状態でした。しかし、実のところ、綿糸、綿布の原材料である綿花もほとんどが輸入品でした。
産業の水準は欧米に肉薄する気配で、軍事力の水準も相当高くなっていた日本は、世界の市場争奪戦の中で大きく警戒されるようになっていました。先行する繊維の市場争奪戦の主戦場は中国を始めとするアジア市場でした。アジア市場は既に植民地として、英国をはじめとする欧米の市場でした。この市場に日本は挑戦した訳です。
日本の繊維産業の突出はどんな状況だったかというと、日清戦争後にまず英国の綿糸と競り勝ち、英国糸を駆逐します。次に綿布です。綿布については、日露戦争後に、米国、インドの綿布を市場から駆逐し、英国綿布と熾烈な競争を繰り広げていました。後発資本主義の日本は欧米各国にとって非常に目障りな存在でした。
このような状況下で昭和四年(一九二九年)、世界恐慌が始まります。先進各国は自国経済圏を防衛するため、本国と植民地を連動させ、他国を排除する経済のブロック化を進めます。日本も日・「満」ブロック(日本と「満州」)にしがみついてしのぎますが、一九三六年に日本を除いて英・仏・米国で通貨協定が結ばれ欧米各国の対立は緩和されていきます。しかし、日本には欧米から綿花輸入、繊維輸出の規制が次々と突きつけられ、あらゆる工業原材料の輸入も禁止され、日本はひたすら日・「満」・支(中国)ブロックへと傾斜していくしか術がなくなって行きます。
それはあっという間の出来事でした。原材料供給が大幅に減った日本の繊維産業は、軍服などの軍需産業以外の民生品製造は厳しくなり、オニタビも軍指定工場として軍服製造に傾向していきます。そしてオニタビも敗戦とともに消滅してしまったのでした。そして「オニタビ通り」という道の呼称だけが残ったというわけです。その「オニタビ通り」という名前も東邦医大通りに取ってかわられその名を知る人も少ないと思います。
今回の話は「地域研究・鬼足袋通りを行く」という冊子にまとめ、区内各図書館に置いてあります。興味のある方はどうぞご覧ください。(完)
●廣瀬達志(ひろせ たつし)蒲田開発事業(株)まちづくり部長・元区職員