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わわしい母ちゃんの独り言(1)太郎冠者に会いに行こう   谷森 美子    

2013年9月掲載  

 

  狂言が好きである。登場人物が太郎冠者とか次郎冠者のアレである。「伝統芸能」というジャンルで、役者は着物を着て古文を喋り、舞台背景にでっかい松が描いてあるだけ。「後見」というサポート役は紋付き袴で顔を出して舞台に控え、たいていBGMもない。
 うへぇ、取っつきにくそう〜と思われるかもしれない。が、チビッコだって大丈夫、大笑いできる。なぜなら、登場人物がどこかで見たことがあるような「しょーもない」人ばかりだからだ。
 太郎冠者は『千切木』では妻に尻をたたかなければ友人とケンカもできず、『鐘の音』では刀を作るための「金(金属)の値」を「鐘(梵鐘)の音」だと勘違いし、『棒縛』ではいつもいつも主人の留守に酒を盗み飲みしおってと棒に縛り付けられてしまう。
 他の人物も似たようなもので、『花子』の主人は女房がこわいのに浮気をし、『柿山伏』の大名はたった三十一文字の和歌を暗記できず、山伏は柿の盗み食いをごまかすためにカラスだのサルだのトンビだのの物まねを必死になってやる。しかも柿の木の上でだ。
 女性はどうかといえば、大抵気が強くてたくましく(わわしい女という)、大声を張り上げ夫である太郎冠者を尻に敷いている。とてもじゃないが三歩下がって三つ指ついてという「大和撫子」とはほど遠い。控えめでしとやかといった「昔の女」に対して持っているイメージがガラガラと崩れ落ちるような元気さだ。
 狂言の舞台でつまらないことに右往左右する人物たちは、失敗して主人に叱られても「許させられい、許させられい」と言いながら笑って逃げてしまう。たぶん次の日には、こりもせず主人に「おはようございまする」なんて言っているのだろう。現代の我々よりもはるかに打たれ強いし行動も破天荒なのである。
 現代はグローバル、ボーダーレス化が進み、我々はその対応に追われている。しかし、これは別に目新しいことではなくて、中世の再来だと考える向きもある。日本はずっと鎖国をしていたわけでなく、中世には中国、琉球、その先にある今のフィリピンやタイとも行き来があった。中世、つまり狂言の登場人物達は、ボーダーレスな世界観を持ってアジアという大きなくくりの中で生きていたのだ。例えば『唐相撲』の相撲取りは強さを買われて唐の宮廷で相撲取りをしている。海外進出したスポーツ選手第一号というところか。
 しばしば戦もあった。殺伐とした時代に、たくましく図々しく生きていた人々の姿は、グローバル化、化、ボーダーレス化にあたふたする我々にとってのよきお手本になる。彼らの「しょーもなさ」にこそ、現代人の生きるヒントが隠されているのではないだろうか。 
 なーんて、面倒くさい話はこの辺にして、太郎冠者に会いに行こう。彼らの「しょーもなさ」に大笑いして、元気をもらおう。心の「凝り」が取れること、間違いなしだよ。
(おわり)

●谷森美子(たにもり よしこ)大森在住

 

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